第90話    「幻の大石鯛」   平成17年12月25日  

かつて庄内でも、庄内で石鯛が釣れたと云う記録が数々ある。
自分が最初に大石鯛の魚拓を見たのは、致道博物館で見た明治16年松濤公(第14代藩主酒井忠宝)が釣上げた一尺九寸五分の見事な石鯛であった。その時「北国の庄内にも大きな石鯛がいたんだなぁ」と云う事を始めて知った。石鯛は南方系の魚であるから、関東以北では釣れないと聞かされていたし、30年代の釣りの本を見てもそのように書いてあった。が、地元庄内に昔から石鯛の幼魚がいる。不思議な事だとは、学生時代からの疑問のひとつであった。関東では石鯛を釣るに、サザエを使っている。

庄内では、赤鯛(真鯛)を釣る餌にあわびの短冊を使用していた。そのあわびの餌に食いついて来たものらしい。関東と異なり、庄内には石鯛を釣ると云う専門の釣はない。外道として、偶々釣れているに過ぎない。松濤公も赤鯛を狙っての釣であるから当然あわびを使ったものと思われる。最近は、あわびのような高級な餌は使う人は誰もいない。戦前のお金持ちの釣り人達は、赤鯛を釣るにあわびを使うのは当たり前だったらしい。昨年亡くなった酒井忠明さんも若かりし頃の、あわびの短冊を使って釣っているが、石鯛が釣れたと云う話はない。

次に石鯛が釣れたと云う話が出てくるのは、荘内日報平成1326日に掲載釣れた今間金雄氏の黒鯛釣りの思い出I「引き味」の中に出て来る。氏は庄内竿を使った伝統釣法を得意としている方で「庄内の黒鯛釣り」(昭和58年)を書かれた方でもある。まことに勝手ながら引用させていただく。

「大きくなったイシダイの引きはどうであろうか。私も粟島で尺六寸を釣ったのが最高であるが、なにせ貫目以上のアカダイを釣るための仕掛けであるから、意外にアッサリと上った記憶しか残っていない。しかしながら小波渡の小楯で二尺ぐらいのイシダイに挑戦したときは、まるで体に綱を巻き付け、海底をノッシノッシと歩くように引っ張り込まれ、竿が危うくなりノサレて10号のハリスを噛み切られるという、苦杯をなめた。左隣の大楯の高所から眺めて見ると、三十分に一回ぐらいの割合で、二匹の二尺近い大きさのイシダイが、岸と沖の間をゆうゆうと往復していた。
このイシダイに対して一週間前から連日攻め続け、その都度敗北していた、泉町の馬市場の某氏が午後の五時ごろにやって来て、ザリガニをえさにして投入して間もなく、錆び付いたリールがきしみ音をあげながら、全部の糸が出尽くした途端に糸の切れるのを目撃した。「その仕掛けでは幾度改めても無理な代物だから抵抗するのは止めにした方がいい」と諭した。
当時、市中の釣具店にはワイヤーの仕掛け等は皆無であり、ニッパーの刃先のような一枚歯で、サザエもかみ砕くイシダイの歯に掛かっては、いくら太いナイロンのテグスであってもいとも簡単にかみ切られしまうであろう。」

何時の頃の釣りかは分からないが、今間氏が盛んに釣りをしておられた時代には、幻と云われながらもまだ石鯛がおって、たまに鈎にかかっていたと云うことになる。察するに昭和30年代の事であろうと考えられる。明治16年の松濤公の釣では致道博物館に飾られている無銘の名竿4間の延竿で、今と比べればお話にならない程の弱いテグスで一尺九寸五分の見事な石鯛ほかを一晩のうちに釣上げている。余程釣りの腕前が良かったのであろう。

話は変るが、先日加茂の水族館の館長とお話をしていた時に「この水族館の西方の加茂荒崎の海底にも、1尺五寸の石鯛がうようよといたものだ!」と云う。自分で潜って確められたとので、絶対に間違いはないと云う。昭和30年代の後半の話である。ただ、不思議なのはその後釣れて来るのはおおよそ25cm前後まででしかない。たまに30cmの石鯛は釣れて来るのであるが、それ以上の親が釣れて来ないと云うことはないと思っている。10号のナイロンハリスをたやすく切ってしまうと云うのは分かるのだが、庄内には釣りに覚えのある釣師が大勢居たのであるから、マグレでも釣れないと云う筈はない。その一方で昔から居た大きな石鯛は漁具の発達や漁師の網にかかって、いなくなってしまったと云う定説はあるも、どうも納得の出来ない話である。

幕末といえば、小氷期に当たっている。当然寒かったであろう時期に南方系の石鯛が生き残り、明治16年の松濤公の釣竿にかかって来たのである。当時とは色々と条件の違いがあるかも知れぬが、石鯛の幼魚が沢山居るのに、一枚も大きな物が釣れて来ないと云う不思議さだけが残る。だから、そこが幻の魚とも云えるのだが・・・・?